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デ・キリコ:形而上絵画の謎と影響

  • 執筆者の写真: 渡邉 定好
    渡邉 定好
  • 3月3日
  • 読了時間: 8分

ジョルジョ・デ・キリコは、多様な文化的背景と芸術的影響の中で独自の画風を確立しました。

  • 幼少期と教育

    • 1888年にイタリア人の両親のもと、ギリシャのヴォロスで生まれました。

    • アテネでイエズス会の学校に通った後、家庭教師から教育を受け、イタリア語、フランス語、ドイツ語を習得しました。

    • アテネ理工科学校で絵画を学び、その後、ミュンヘン美術アカデミー出身の教師に師事しました。

  • ミュンヘン時代と象徴主義の影響

    • 1906年、家族とミュンヘンに移り、当時の画壇で強い影響力を持っていた分離派の影響を受けました。

    • アルノルト・ベックリンの絵画に傾倒し、ニーチェの哲学にも影響を受けました。

    • ベックリン風の絵を描いていましたが、1910年にフィレンツェに移り、サンタ・クローチェ広場で形而上的なインスピレーションを受け、形而上絵画を始めるきっかけとなりました。

  • 形而上絵画の誕生

    • フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で、すべてを初めて見ているような奇妙な印象を受け、作品の構成が心に浮かびました。

    • この経験から、彼は説明できない謎めいた感情を抱き、それを表現するために形而上絵画を描き始めました。

    • この感情は、ニーチェの思想に通じるところがあり、世界の記号体系が崩壊し、すべてのものが意味を失ってしまう状態を表現していると述べています。

    • 無意味であることは、逆にあらゆる解釈が可能であるとし、形而上絵画は無限の可能性の表現であると捉えました。

    • イタリアの都市、特にトリノでこの感覚が起こりやすいと述べています。

  • パリ時代とピカソ、アポリネールとの出会い

    • 1911年にパリに移り、ヴェルサイユ宮殿で古代のネムアリアドネの彫刻の模写作品を見て、アリアドネの像を作品に頻繁に登場させるようになりました。

    • 1913年、サロン・ドートンヌに作品を出品し、ピカソとアポリネールに絶賛されました。

    • アポリネールは、ジョルジョ・デ・キリコの作品を形而上的と呼びました。

    • ピカソやアンリ・ルソーの影響を受け、ベタ塗りのような画風に変化していきました。

  • 第一次世界大戦とダダイスムとの交流

    • 第一次世界大戦が勃発し、アポリネールはフランスに帰化するために志願しました。

    • 1915年、キリコはイタリアに帰国し、徴兵検査で不適格者となり、フェラーラで病院勤務をしながら絵を描き続けました。

    • 1916年頃には、トリスタン・ツァラなどダダの芸術家と交流し、ダダ的な要素を取り入れた作品も制作しました。

    • マネキンをモチーフとした作品を制作し始めました。

これらの要素が組み合わさり、ジョルジョ・デ・キリコの独特な画風が確立されていきました。


アンドレ・ブルトンがジョルジョ・デ・キリコに絶望した理由について、ソースから以下の情報が得られます。

  • シュルレアリストからの絶賛と決別

    • 当初、アンドレ・ブルトンはデ・キリコの作品を高く評価し、1920年には雑誌「リテラチュール」でデ・キリコを絶賛していました。

    • ブルトンは、デ・キリコの絵画がロートレアモンの「解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の出会い」のような美しさを表現していると評価しました。

    • しかし、1926年6月、「シュルレアリスム革命」第7号で、ブルトンは突然「我々はデ・キリコに絶望した」と宣言し、激しい批判を展開しました。

  • 過去の作品の劣化コピー

    • ブルトンは、デ・キリコが金のために過去の有名な作品を劣化コピーした贋作を作っていると批判しました。

    • ブルトンは、デ・キリコの過去の作品こそ守るべきだと主張しました。

  • 技術への回帰と秩序への回帰

    • デ・キリコ自身は、1919年に「技術への回帰」と「秩序への回帰」を提唱し、古典絵画の模写を始めました。

    • ボルゲーゼ美術館でティツィアーノの作品に感銘を受け、ラファエロやミケランジェロの模写を始めたと述べています。

    • ブルトンは、デ・キリコの古典への回帰を、過去の作品の劣化コピーだと見なしました。

  • シュルレアリストの経済的懸念

    • シュルレアリスムの一派は、デ・キリコの初期作品を買い集め、それを売却することで資金源としていました。

    • デ・キリコが画風を変化させたことで、初期作品の価値が下がることを恐れたシュルレアリストたちが、デ・キリコを批判したという説があります。

  • アンドレ・ブルトンの器の小ささ

    • 山田五郎は、アンドレ・ブルトンの器の小ささが、デ・キリコへの批判の背景にあると考えています。

    • ブルトンは、ダリがアメリカで金を稼ぎ始めると、「アダルト・ドルの猛者」と批判するなど、自分の理想と違うとすぐに態度を変える傾向がありました。

  • デ・キリコの反論

    • デ・キリコは、ブルトンたちの批判に対して、「奴らには分からん、分かる人には分かる」という態度を取り、自身の道を追求しました。

これらの要因が複合的に絡み合い、アンドレ・ブルトンとジョルジョ・デ・キリコの関係は決裂に至りました。

ジョルジョ・デ・キリコの絵画における「謎」とは、以下の要素から構成される多層的な概念です。

  • 言葉にできない感情

    • デ・キリコは、フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で感じた、すべてを初めて見ているような奇妙な印象を「謎」と表現しました。

    • この感情は説明できないため、作品もまた「謎」と呼びたいと述べています。

    • それは、世界から音が消え、まるで自分だけが取り残されたような孤独感を伴う感覚です。

  • ゲシュタルト崩壊

    • この「謎」は、ゲシュタルト崩壊の一種として解釈できます。

    • 世界を認識するための記号体系が失われ、見ているものの意味がわからなくなる状態です。

    • 例えば、字をじっと見ていると、その意味がわからなくなり、ただの線に見えてしまう現象と似ています。

  • ニーチェの思想との関連

    • デ・キリコによれば、この感覚はニーチェの思想に通じます。

    • 世界の秩序や意味が崩壊した時に生じる、無意味さの状態を指します。

    • 神の死や生の無意味といったニーチェの概念と関連付けられています。

  • 無限の可能性

    • デ・キリコは、無意味であることは逆にあらゆる解釈が可能であると考えました。

    • 「謎」であるからこそ、どんな解釈でも可能であり、形而上絵画は無限の可能性の表現であると捉えています。

    • 答えがないからこそ、鑑賞者は自由に想像し、解釈することができるのです。

  • メランコリー

    • デ・キリコは、「謎」を**メランコリー(憂鬱)**という言葉でも表現しました。

    • 秋の日の午後のように、空が澄み渡り、影が長く伸びる情景の中で感じられる、物寂しい感情を指します。

  • イタリア広場

    • デ・キリコは、この感覚をイタリアの都市、特にトリノで感じやすいと述べています。

    • そのため、イタリア広場というシリーズで、この感情を様々な形で表現しました。

デ・キリコの絵画における「謎」は、単なる不可解さではなく、鑑賞者自身の内面と向き合い、独自の解釈を生み出すための入り口なのです。それは、固定された意味や答えを求めるのではなく、無限の可能性を受け入れることを促す、デ・キリコの芸術の核心をなす概念と言えるでしょう。


シュルレアリストがデ・キリコに絶望した理由は、複数の要因が複雑に絡み合っています。

  • 過去の作品の劣化コピー: アンドレ・ブルトンは、デ・キリコが金のために過去の有名な作品を劣化コピーした贋作を制作していると批判しました。ブルトンは、デ・キリコの過去の作品こそ守るべきだと主張したのです。

  • 技術への回帰と秩序への回帰: デ・キリコ自身は1919年に「技術への回帰」と「秩序への回帰」を提唱し、古典絵画の模写を始めました。ボルゲーゼ美術館でティツィアーノの作品に感銘を受け、ラファエロやミケランジェロの模写を始めたと述べています。ブルトンは、デ・キリコの古典への回帰を、過去の作品の劣化コピーだと見なしたのです。

  • シュルレアリストの経済的な懸念: シュルレアリスムの一派は、デ・キリコの初期作品を買い集め、それを売却することで資金源としていました。デ・キリコが画風を変化させたことで、初期作品の価値が下がることを恐れたシュルレアリストたちが、デ・キリコを批判したという説があります。

  • アンドレ・ブルトンの器の小ささ: 山田五郎は、アンドレ・ブルトンの器の小ささが、デ・キリコへの批判の背景にあると考えています。ブルトンは、ダリがアメリカで金を稼ぎ始めると、「アダルト・ドルの猛者」と批判するなど、自分の理想と違うとすぐに態度を変える傾向がありました。

ブルトンは当初、デ・キリコの絵画がロートレアモンの「解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の出会い」のような美しさを表現していると評価していました。しかし、デ・キリコが古典に回帰し、過去の作品を模倣するようになったことで、ブルトンの理想から外れてしまったと考えられます。

ブルトンは1926年6月、「シュルレアリスム革命」第7号で、突然「我々はデ・キリコに絶望した」と宣言し、激しい批判を展開しました。ブルトンの批判に対し、デ・キリコは「奴らには分からん、分かる人には分かる」という態度を取り、自身の道を追求しました。

ブルトンはデ・キリコを激しく批判し、過去の作品を高く評価することで、デ・キリコの初期作品の価値を維持しようとした可能性があります。また、シュルレアリストたちは、デ・キリコをからかうようなオブジェを展示したり、デ・キリコの葬式ごっこのような写真を作成し雑誌に掲載するなど、激しい攻撃を行いました。

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