日本の転換期:失敗への多角的考察
- 渡邉 定好
- 1月30日
- 読了時間: 4分
更新日:1月31日
とかく戦前は「軍国主義」だったので軍部の暴走によって悲劇が起こった的な見方が圧倒的だった。まさに日教組教育の賜だろう。
しかし、ここにきて若手の研究家から誰かを悪者にするのではない歴史の切り口が出て来たことに感銘を受けた。
また、この視点は現在にもつながる問題でもある。ある意味「民主主義」が暴走を生んだとも言える。
NotebookLMによるまとめ
日本の失敗における転換期を多角的に考察すると、以下の点が挙げられます。
普通選挙の導入とポピュリズム:1925年の普通選挙法成立により、納税額に関わらず男性に選挙権が付与され、1928年には初の普通選挙が実施されました。しかし、この普通選挙は大衆の感情に訴えるポピュリズムを助長し、政党が選挙で勝利するために「国体」などのキーワードを安易に利用した結果、かえって政治を不安定化させる要因となりました。
選挙での大衆への訴求のために使われたキーワードが独り歩きし、右翼団体による首相暗殺未遂事件につながるなど、民主主義自体を蝕みました。
普通選挙によって有権者数が増加したことで、メディアが分かりやすいキーワードやキャラクターで政治を判断するようになり、政治がパターン化してしまった側面もあります。
制限選挙時代には、一定の社会や経済力を持つ人々が有権者だったため、キーワードに安易に反応することは少なかったものの、普通選挙の導入により、大衆が分かりやすいスローガンに影響されやすくなりました。
外交政策の転換:
日英同盟の破棄:1921年の四カ国条約によって日英同盟が破棄されたことは、日本が国際的に孤立する一因となりました。日英同盟が維持されていれば、その後の戦争を回避できた可能性を指摘する声もあります。
桂・ハリマン協定の不成立:日露戦争後、満州を日米で共同開発する計画がありましたが、この協定が実現しなかったことも、日米関係が悪化する要因の一つとして挙げられています。
石橋湛山の小日本主義の主張:第一次世界大戦後、石橋湛山は、植民地を放棄し貿易立国を目指すべきだと主張しました。これは当時の評価は低かったものの、戦後の日本の状況を先取りした考え方であったため、日本のターニングポイントとして議論されることがあります。
大正デモクラシーと軍部の台頭:
第一次世界大戦の影響:第一次世界大戦は総力戦となり、国家の総力を結集して戦う必要性が認識されました。この結果、日本は国力の重要性を認識し、資源獲得のために勢力圏拡大を目指すようになります。
軍部の暴走と統帥権干犯問題:満州事変や日中戦争など、軍部が政府の意向を無視して独断で行動する事例が増えました。また、統帥権干犯問題のように、軍部の行動を制約できない政府の弱体化も指摘されています。
精神主義の台頭:合理的な判断よりも精神力を重視する風潮が強まり、科学的な計算を無視して無謀な戦争に突入する要因となりました。
精神主義は、資源や国力が不足している状況で、軍部が戦争に勝つための戦略として合理的に選択した側面もあります。
帝国憲法と官僚制度の弊害:
文言的な憲法の問題:明治憲法は、天皇を中心とした権力構造であり、官僚が相互に調整する仕組みが欠けていました。明治の元勲たちがいた時代は、彼らの人間関係で調整が可能でしたが、彼らが去ると、官僚間の対立が激化し、国家全体の意思決定を困難にしました。
官僚主導の政策決定:官僚出身の東条英機は、法を遵守しながらも、複数の大臣を兼任することで権限を集中させようとしました。しかし、これは独裁的な指導力を発揮するためではなく、当時の統治体制の中で最大限の力を発揮するための苦肉の策でした。
民衆とメディアの責任:
ポピュリズムの浸透:戦争を肯定するようなプロパガンダ映画やレコードが消費され、大衆が戦争に協力する風潮を助長しました。
メディアの役割:メディアは、検閲の影響を受けていた側面がある一方、戦争報道で利益を得ていた側面もあり、軍部の暴走を抑制する役割を果たせませんでした。
歴史観の相対化:
現代の視点からの解釈:現在の視点から過去を評価しがちであり、当時の状況や人々の考えを考慮する必要があります。
多角的な視点の必要性:日本だけでなく、世界史的な視点から日本の行動を捉え、日本が被害者であった側面と加害者であった側面の両方を見る必要があります。
これらの視点を総合的に考慮することで、日本の失敗の転換期をより深く理解することができます。
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